第5部 5年目 回して、つなぐ 第4話
「この店、私にどうしろと?」妻の一言
全部を見せた翌朝、妻が言った。「もしあなたが死んだら、この店、私にどうしろと?」。商売をしたことがない妻にとって、店は資産ではなく重圧だった。

01 全部を見せた翌朝、妻が言ったこと
食卓に通帳と決算書を並べた、翌朝のことです。妻がコーヒーを入れながら、背中を向けたまま言いました。「ねえ。もしあなたが死んだら、この店、私にどうしろと?」
冗談の声ではありませんでした。前の日に全部を見たからこそ、出てきた言葉だったと思います。口座の場所も、家賃の額も分かった。分かったから今度は、「店」そのものが、妻の目の前に大きく立ちはだかったのです。
妻は、商売をしたことがありません。パートで働いて、家のことをして、責任を持つのが昔から嫌いな、どこにでもいる普通の人です。僕はそれを知っていて結婚しました。妻が好きなのは、庭の花と、日曜の昼寝と、近所の犬の散歩です。だから店のことで妻を頼ったことは、一度もなかった。
「店は、残すものだと思ってた」。僕がそう言うと、妻は振り向いて言いました。「残されても、私、何もできないよ」。その顔は、怒っているのでも泣いているのでもなく、ただ困っていました。
店を残される妻の顔は、ただ困っていた。
あなたの店を、家族が引き継いだら。家族は、喜びますか?
02 店を残された妻に、翌月から起きること
僕がいなくなった月の翌月、店で何が起きるか。僕は妻の立場で、順番に数えてみました。
まず家賃。日にちが決まっていて、待ってくれません。僕の葬式の次の週に、引き落とし日が来るのです。次にスタッフ3人の給料。続けてもらうのか辞めてもらうのか、妻には決められない。薬剤の仕入れと光熱費。量も相場も分からない。借入の返済。名義も残額も、前の日に初めて見たばかりです。
そして、店を売るか閉めるか。買い手を探す、契約を解く、元の状態に戻して返す。全部、妻にとっては初めてのことで、しかも喪の最中にやることになります。
店を残す、と言うと聞こえはいい。でも中身は、期限つきの支払いの山と、決めなければいけないことの山を、できない人に渡すことでした。僕が序章で書いた一文は、ここから来ています。家族は、店を残されるほうが、実は不幸になる。
店を残すとは、支払いの山を、できない人に渡すこと。
03 楊さんの「資産と仕事は、違うもの」

体が戻ってきた頃、僕は楊さんとカフェで会いました。妻の言葉をそのまま伝えると、楊さんは珍しく、はっきり言いました。「奥さんが正しい」。
「三平くん。資産いうのは、持っとるだけでお金を生むもの。店は、三平くんが立って、髪を切って、初めてお金になる。それは資産やなくて、仕事や」。3年目に家のことで聞いた話と、同じ物差しでした。家は、持っているだけでお金が出ていくから負債。店は、僕が働いて初めて売上になるから仕事。
「仕事は、できる人にしか渡せん。奥さんは美容師やない。ほんなら店は、奥さんには渡せんもんやろ」。僕は、店を家族の財産だと思い込んでいました。10年かけて作った店です。思い入れは、誰より強い。でも思い入れは、妻の手には渡りません。
楊さんは最後に言いました。「残す物はね、残される人の目で選ぶんよ。自分の目やない」。僕はコーヒーを飲みながら、初めて「店を手放す」という言葉を、頭の中で口にしました。
残す物は、自分の目ではなく、残される人の目で選ぶ。
04 「店」と「資産」を、同じ物差しで並べる
家に帰って、僕は妻の立場で表を作りました。店を残されたら翌月から起きることと、それを妻ができるかどうか。

5つ並べて、妻にできるのは1つもありませんでした。できないのは、妻のせいではありません。商売をしたことがない人に、商売を渡そうとした僕の側の問題です。
逆に、未来の口座はどうか。市場の平均を買って、何もしない。これは、妻が引き継いでも「何もしない」を続けるだけです。日にちの決まった支払いもなく、スタッフもいない。楊さんの言う「持っとるだけでお金を生むもの」は、家族に渡せる形をしていました。
店は、僕にとっては宝物です。でも家族にとっては、僕がいて初めて宝物でした。僕がいなくなった店は、宝物ではなく重圧になる。それが、妻の「どうしろと?」の意味でした。
僕がいない店は、宝物ではなく重圧になる。
05 「店を残さない」と、2人で決めた

その週末、妻と食卓で決めました。店は、妻に残さない。残すのは、持っているだけで回るものだけにする。
「残さない」と決めただけで、具体的に何をするかは、まだ何もありませんでした。売るのか、閉めるのか、誰かに渡すのか。それはこの先の話です。でも、方向が1つ決まると、妻の顔から力みが消えました。「それなら、私にもできる」と妻は言いました。妻にとっての「できる」とは、何かをすることではなく、何もしなくていいと分かることでした。
僕が変えたのは、言葉です。それまで僕は、店を「資産」と呼んでいました。この日から「仕事」と呼ぶことにした。仕事なら、いつか誰かに引き継ぐか、終わらせるものです。呼び方を変えると、見え方が変わりました。
もう1つ。前の話で書いた「困る5つ」の紙に、1行足しました。「店は残さない。処分のことは税理士の◯◯さんに相談する」。妻が1人で決めなくていいように、相談先を名前で書いておいたのです。
店を「資産」と呼ぶのをやめ、「仕事」と呼ぶことにした。
06 今日やること:家族に「どうしろと?」を聞いてみる
今日やることは、1つだけです。家族に、こう聞いてみてください。「もし僕に何かあったら、この店、どうする?」 答えは、たぶん「分からない」です。それでいい。その「分からない」を、一度、聞いておくことが大事です。
聞いたあとで、家族ができることと、できないことを、紙に分けてみてください。できない側に店が入るなら、あなたの店は、家族にとって資産ではありません。それを知ることが、5年目の僕には一番大きな一歩でした。
次の話は、5-5「妻が『店より株のほうが安全』と言い出した」です。「何もできない」と言った妻が、自分から発表会に座った日の話です。
家族の「分からない」を、一度、聞いておく。
情報元
- 講座 第3回「資産にはそれぞれ役割がある」・第14回「家族のお金と資産運用のルール」(講義ノートより)
- 三平物語の背骨 | 「家族は、店を残されるほうが実は不幸になる」(序章より)
※ この物語はフィクションです。数字は試算で、将来の結果を約束するものではありません(くわしくは「この連載について」)



