第5部 5年目 回して、つなぐ 第7話
60歳の僕の店に、お客さんは来ますか?
46歳の手を見て、あと何年立てるかを数えた。健康寿命は男性72.57年。妻との夢はキャンピングカーで日本一周。でも年を取った店に、今と同じようにお客さんは来ない。

01 ハサミを置いて、指を数えた午後
秋の平日、予約の空いた午後でした。鏡の前でハサミとコームを置いて、僕はふと、自分の手を見ました。46歳の手です。指の関節が、少し太くなっていました。ハサミを持って25年。手は、正直です。
塚ちゃんの「開業って、いくらかかるんですかね」を考えていたはずが、頭に浮かんだのは別の問いでした。僕は、あと何年、この鏡の前に立てるのか。
指を折って数えました。50歳まで4年。60歳まで14年。春に体を壊してから、1日10時間立つのは、もう前ほど簡単ではありません。腰のコルセットは、2年目から外れていません。
鏡に映った空の椅子を見ながら、僕は思いました。60歳の僕が立つこの店に、今と同じようにお客さんは来るのだろうか。
60歳の僕の店に、今と同じお客さんは来るか。
あなたは、何歳まで、鏡の前に立つつもりですか?
02 健康寿命という、数えたことのない数字
家に帰って、公的な数字を調べました。厚生労働省が出している「健康寿命」です。2022年の値で、男性72.57年、女性75.45年。平均寿命との差は、男性で8.49年。つまり日本の男性は平均すると、72歳くらいまで日常の制限なく暮らし、そのあと8年ほど、何かしら不自由な時間があるということです。
僕は46歳。72歳まで、26年。でもこれは「暮らせる」年数であって、「1日10時間立って髪を切れる」年数ではありません。美容師の体は、暮らしより早く限界が来る。春に倒れた僕は、それを体で知ったばかりでした。
妻との夢があります。キャンピングカーを買って、日本一周。北海道の海沿いを走って、沖縄の港で車を降りる。2人で話すたびに、妻の目が少しだけ若くなる夢です。
この夢を、60歳で叶えるのか、65歳で叶えるのか。それとも、叶わないのか。それは、店に立てる年数と、健康な年数の、どちらが先に尽きるかで決まります。僕は、数えたことがなかった。42歳のときは「まだ先」で、46歳の今は「もう見えている」。4年で、同じ数字の意味が変わっていました。
健康な年数と、店に立てる年数は、同じではない。
03 海辺で、妻とキャンピングカーを見た

次の日曜、妻と糸島の海へ出かけました。駐車場に、白いキャンピングカーが停まっていました。年配のご夫婦が、折り畳みの椅子を出して、コーヒーを飲んでいました。ナンバーは、遠くの県のものでした。
妻が、その車をずっと見ていました。「あれ、いいね」。僕も「いいね」と答えました。そのあとで妻が言ったのが、この話の始まりでした。「あの人たち、何歳だろうね。私たち、何歳であれやるの?」
僕は正直に話しました。店を続ける限り、長い旅には出られない。1週間店を閉めるだけで、指名のお客様が離れる。春にそれを見たばかりだ、と。妻は「じゃあ、店をやってる限り、無理ってこと?」と聞きました。
「やってる限りは」。僕はそう答えて、気づきました。店を手放す話は、妻のためだけではなかった。僕自身の、残りの健康な時間のための話でもあったのです。楊さんの言葉が浮かびました。「投資はね、人生をハッピーにする手段やけん」。手段であって、目的ではない。店も、同じでした。
店も投資も、人生をハッピーにする手段であって、目的ではない。
04 「このまま続けた場合」を、紙に書いた
海から帰った夜、僕は「このまま店を続けた場合」を紙に書きました。数字ではなく、流れです。

46歳の今、僕のお客様の中心は40代から60代です。10年たてば、お客様も10歳年を取る。来店の間隔は延び、足が遠のく人も出る。新しい若いお客様は、若い美容師の店を選ぶ。これは、僕が若い頃、年配の先輩の店で見ていた光景そのままでした。
僕の体も同じです。1日10時間が8時間に、8時間が6時間になる。売上は、僕の立てる時間と、お客様の年齢に、両側から縛られている。表に書いたのは、そういう「向き」でした。
書き終えて分かったのは、年を取った店には、今と同じようにはお客さんが来ない、ということです。悲しい話ではありません。当たり前の話を、僕が20年、見ないようにしていただけでした。鏡は毎日見ていたのに、鏡の中の年齢は見ていなかった。
年を取った店に、今と同じお客さんは来ない。
05 店の「終わり方」を、初めて考えた

その夜、妻と大きな紙を広げて、1本の長い線を引きました。左端が46歳、右端が72歳。健康寿命の目安です。その線の上に「店」と「旅」をどこに置くかを、2人で考えました。
60歳まで店を続けると、旅は60歳から72歳までの12年。でも、60歳の体で店を売れるのか、という問題が残ります。年を取った店は、買う人にとっても魅力が薄い。売上が下がってから売るのは、下がった株を売るのと似ています。
僕が変えたのは、「店をいつまで続けるか」ではなく、「店をどう終わらせるか」を考え始めたことです。閉める、売る、誰かに渡す。終わり方は1つではない。そして終わり方によって、僕と妻の線の上の「旅」の位置が、まるで変わる。
妻は線を見ながら言いました。「早いほうが、いいよね」。僕は頷きました。でも、誰に渡すのか。その答えは、まだ紙の上にはありませんでした。
「いつまで続けるか」ではなく、「どう終わらせるか」。
06 今日やること:自分の線を1本引く
今日やることは、1つだけです。紙に線を1本引いて、左に今の年齢、右に72歳と書いてください。 そして「店」と「やりたいこと」を、線の上のどこかに置いてみる。
置けなければ、それが答えです。店を続けている限り置けないものがあるなら、店の終わり方を、一度だけ考えてみてください。考えるだけで、何も決めなくていい。決めるのは、線を何度か引き直したあとで十分です。
次の話は、5-8「この店を一番欲しい人は、目の前にいた」です。紙の上になかった答えが、閉店後の店にいた話です。
線を1本引き、店と、やりたいことを置いてみる。
情報元
- 健康寿命 男性72.57年・女性75.45年、平均寿命との差 男性8.49年・女性11.63年(令和4年・2022年値) | 厚生労働省「健康寿命の令和4年値について」(2024年12月公表)
- 講座 第1回「投資は人生をハッピーにする手段」・第11回「暴落と回復の年表」(講義ノートより)
※ この物語はフィクションです。数字は試算で、将来の結果を約束するものではありません(くわしくは「この連載について」)



